第2の故郷
浪人時代
看護学校受験で全部落ちた日、
高校の仲間と遊び夜遅くに帰ると、母がまだ起きていました。
「明日札幌に行くよ」
突然言われたのです。
うちは貧乏で、もう就職しかないと思い心は真っ暗、 看護師を諦めた夜でもありました。 札幌は看護予備校の手続きに行くためだったです。 そこの寮はテレビ禁止でした。
家族やラジオのありがたさを身に染みた一年でしたが、 絶対看護師になると誓いました。 そして、翌年、 福島県の看護学校に合格。 4月初め人生の旅立ちです。 15人余りの親戚に見送られ
(皆さんありがとう)、
高速バスに乗り、 窓越しに母が何か言いたそうにジーっと見ている姿。 その母のまなざしを今でも忘れられません。 ありがとう、お母さん。
初めての会津若松
知り合いが誰もいない土地。 しかも、聞きなれない会津弁。 異国に来たようでした。 学生寮生活の始まりです。 部屋は8畳で2・3年生と3人部屋。 畳で座卓の机、布団敷いたら足場がありません。 窓側は3年生、廊下側は2年生。 真ん中の私は休まるはずがありません。 ただ私はいびきをかくので先輩の方が迷惑だったかもしれません。
それでも同期の8割は寮生活でした。 先輩には、 妊娠中でおなかの大きい先輩、 いつも看護六法の辞書を持ち歩き常に勉強しているガリ勉先輩、
毎日門限(20時だったかな?)を破り寮長とやりあっている不良先輩、
などドラマのようにバラエティ豊かな面々がいて、 こんなことありなんだと驚き。 毎朝6:30には外でラジオ体操した後、 鶴ヶ城まで(1キロくらい?)走るという、 私にとっては過酷極まりない生活でした。
感動の歓迎会
1週間くらいたってから、 寮の先輩たちが歓迎会を開いてくれたのです。 その中でも部屋ごとに芸出しがあり、 私は芸がなく松田聖子ちゃんの(天国のキッス)を歌ったのを覚えています。
恥ずかしかった。 確か他は先輩と2人羽織やマジックなどしてたような… 歓迎会は盛大で楽しいものでした。 最後に先輩のあいさつがあったのです。 次々と廊下から入ってきた先輩たち。 実は、妊婦、ガリ勉、不良の先輩たちは普通の学生だったのです。
恒例のいわゆる噓コンだったのです。 いろんなことが今ならコンプラなんちゃらですよきっと。
先輩達は一生懸命でバレないかヒヤヒヤしていたそうです。
そして、 私が一番、嘘で良かったと心から思ったことは、 毎日のラジオ体操と走ることでした。 朝食前にマジできつかったです。 しかも朝食は食パンと牛乳とサラダで全く足りません。
ただ、3年間継続していたら確実に激ヤセしていたでしょう。
残念。 でもね、 私たち同期は1年で、全員寮から出て一人暮らしとなったのでした。
なんか時代のずれというか、 なじめなくなったのでしょうか。 根性がなかったのか。 翌年、2年生がいないため寮生が減り、 嘘コンは無くなりました。 私たちできっと最後の嘘コンだったと思います。
貴重な寮生活
あの寮生活で、 共同生活というものを覚えたし、 先輩とも仲良くなった。 3年生はほぼ実習生活と研究レポートに追われ、 国家試験勉強もしながらの生活。 夜勤実習時は寮生以外に泊まりに来ていた先輩にも気を使い、
迷惑をかけないようにってほんとにピリピリでした。 そういう所だったからこそ学んだことは今となっては沢山あります。
お互い気を使い合う(思い合う?)大切さ。 先輩後輩との間の取り方(言い換えれば忖度?)、 時間厳守の厳しさ。 同期という仲間意識。 初めから一人暮らしだったら味わえなかった。 昭和の香りが残る生活は今は体育会系の寮でもないんじゃないかしら。
この経験は二度とない、 世の中の厳しさと人を思いやる大切さを教えてくれた、
最高の宝物となりました。
皆さんも、よく思い出してください。 苦しい経験、楽しい経験、入り混じっていませんか? 今その時期の方もいらっしゃるでしょう。 苦しい中でも、少し立ち止まり、 「これは何の学びだろう?」 と自分に問いかける。 そう思い続けると、すぐじゃなくても、 後で答えが出てくることもあります。 答えが出ない永遠のテーマになることもありますが。
「対面同席五百生」 ご縁は大切にしていきたいものです。
「大丈夫」あなたは一人じゃない
夜、 ブログを書いていると、 窓からコバエのような声がする。 もう春ですね。 バイクの自己アピール。